いのちをもてなす

私は、講演会などによく行きます。 そのたびに本を読みます。

おばかだから、流れる言葉を、要領よくまとめることができませぬ。

本当は、サスペンスなどの本が好きですが、環境が環境だけに

興味津々とは言えない本も読みます。 o(*^▽^*)oあはっ♪


 私のかかりつけの診療所の先生が「いのちをもてなす」と言う本を書かれました。
講演会にも行ってお話しを聞いてきました。
おばかな私は、講演会では理解できなかった「いのち」と言うものが
どんな扱いを受け、どんな受け入れ方をするのか、本を読んで理解ました。

 心は病気を創り出している。
病気は、どのように気づくかと言いますと、痛み・だるさなど
「症状」と言う体調の異常や兆候など、目に見える差異に気づくからです。

 なぜ気づくかと言いますと、心、つまり関心がそちらに向くからです。
同じ現象でも、心が向いているかいないかで、存在したり、しなかったりします。
どこかが痛くても、心が向いていなかったら、痛くないのです。

 水は、人間には「飲む水」ですが、魚には「住む水」です。
いづれにせよ、各人の世界観、人生観に応じるでしょう。

 「人間機械」観では、生きとし生けるものが、必ず到達するゴール「死」が見えていないこと。
「死」は突然理不尽にやってくるもの。
 これに対し、「老化=自然の道行き」観では、老いの先の「死」は
次の自然な位相として、そこに静かに見えている。

 コップに水が半分入っているのを見て、「水が半分しか入っていない」
「水はまだ半分ある」と感じるのによく似ています。
「まだ」とか「しか」とも思わずに、「今」を深く味わう人は少ないのです

 生きるということは、他の命を犠牲にして自分の命をもらうと言う考え方があります。これは現実的です。
戦前・戦中・戦後は、自宅で飼っていた、ニワトリを殺して食べることによって命を生き延びました。

 今でも、スーパーでは、切り身になった魚や肉が売っていて、普通に食べられていますが、これは、他の命を犠牲にして、
私たちは元気に生きています。

 切り身だけを見て、買って食べている現代人には、想像もつかないでしょう。
生きるということを、深く考えると、不思議なものだなと思いました。

 自分の死を、みずからに与えられ、許された死と考える場合の「自分」は、自分の持ち分、分け前の意味合いが深いのであって、その分け前は自分が属する共同体のそのときの獲物や、収穫量によって変動するであろう

 自分は、状況に応じて、あるいは、周囲の他者との関係によって柔軟に大きくなったり、小さくなったりする可能性がある。
って、少し難しいけど、つまりは、自分は他人や生きる環境で幸せと考えたり、不幸と考えたりすることで、大きくも小さくもなるってことかな。

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