い の ち


これは、ある本の受け売りだから、自分の表現ではありません。

私の読んだ本は、「いのち」と言うものを、色んな方面から考える本です。

 神戸のある病院の院長先生が語っていた、死ぬということ。
死ぬと言うことは、心臓や脳波が止まったときに、一応死ぬと言う
でも、初七日が過ぎ、一周忌、三回忌など、法要があるたびに、その人を想い出し、偲ぶ。

 それでも、死ぬにあたらない
家族は勿論、知人・友人など、死んだ人を思い出す人がいるまでは死なない
死んだ人に関る全ての人が居なくなるまで、思い出されなくなるまで
そうやって、ダンダンと死んで行くのだという。
だから、100年以上はかかりそうだな

だって、σ(^_^)アタシの、おばあちゃんは45年前に亡くなったけど、
私はまだおばあちゃんを覚えていますもの。


┗|`O´|┛もういっこっ!!


 ある学者さんが、数年前、点滴で栄養を摂る寝たきりの状態になり、点滴を抜けば死ぬ。
自己決定権を尊重した担当医は、望むならいつでも点滴を抜くと言いました。

 点滴を抜いたら、その担当医はどんな思いをされるだろうと考えたと言うのです。
後味の悪い思いをされるだろう。
家族からも、点滴を抜く先生の気持ちも考えてくださいと言われ納得したと書いてあります。


 「私」というものは、ほかの人に入り込んでいて、自分から死ぬと言ってはならない。
自分の命は自分のものだけではない。
もし、この先、意識がなくなっても、家族が納得するまで生かせてほしい


「いのち・生命科学に言葉はあるか」 から 抜粋

これって まずいかなぁ? 著作権違反かなぁ
感想文として受けてくれたらいいんだけど


 私も、死ぬ・生きるを簡単に考えていました。 自分の命なんだからと、軽く・・・・
自分が死ぬ時は、すすむちゃんも一緒にと考えていました
それは自己決定権とは全くちがう、どんな命にも自己決定権はないのです。
すすむちゃんまで巻き添えにしたら あかん あかん  (  ̄_ ̄)ノ"☆( _ _)ペチ  ばかたりぃ〜〜!!!

 私は母と、すすむちゃんが逝ってしまったら、もう思い残す事はないのです。
こうして、命と言うものを、色んな方面から見させてもらっても
私は点滴を抜いてくださいって言うだろうなぁ
じゃぁ、いったい何に感動して、この本を読んだの?と自分に問い詰めるのです

 そして今現在も命というものを深く考える事があります。
すすむちゃんは声は出ても言葉を発することができません。私の言っている事は理解しています。
病院スタッフの言っている事も理解しています。 
言葉がでないからと安心して理不尽な言葉を投げかけられた時には彼は本当に傷ついています。 
「どうして俺はしゃべれないんだろう?」と悔しくてもどかしい気持ちが私にはよく解るのです。

 もう8年近くも寝たきりで、自分で寝返りを打つ事も出来ず、自分を表現する事もできません。
死にたいと思っているかもしれません。自分で死ぬ事もできない、でも頭の中では人の話しを聞き、
話したいと言う欲望にかられ、それも出来ない何もできないのです。
 どこまで生かせるんだと抗議の意もあるかもしれません。私は命について他人の考えを聞いた時に命は人のものなんだ、自分のものではないんだ、倫理的に生かされているという考えが半分、
いやいや「あなたが生きていてくれなければ」と言う考えも半分です。

 話しは変わりますが、精神薬にはいくらでも人をダメにすることのできる薬があるようです。
暴れたりうるさかったりすると、運動機能や言葉の機能をダメにすることができます。
介護の負担を少なくするための薬とも言えるでしょう。 動かなければ、うるさくなければ優しく介護できる。
命さえあれば家族に文句も言われず法にふれることもなく、ただ物として扱えるのです。

 いのち・・・・・ 重いか軽いか   (ー'`ー;)う〜ん・・・・ また続きは後ほど

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